『コップ第三回拡大中央協議会への報告書(草案)』





 『コップ第三回拡大中央協議会への報告書(草案)』

日本プロレタリア音楽家同盟常任中央執行委員会発行

日本に於ける文化運動は、その凡ゆる分野に於て、重大な転換期に遭遇してゐる。文化運動の総ての面に於ける全面的後退の事実と、支配階級の暴圧の加重とは、コップ加盟諸団体をして、過去の運動の再認識と批判を要求している。批判の対照は特に第二回拡中協以後の一年間に亙る活動に向けられねばならない。事は云ふ迄もない。運動の隅々までも再認識し批判する事によって、その上に正しい方針が樹てられてのみ、我文化運動は再び輝しい発展の道に進むであらう。

我ユムプ(P.M.ヲ一九三三年九月改称)に於ては第二回拡中協以後の一年間の状態は如何なるものであったか?ユムプは此の期間に於て、曾て見ざる波瀾を生じた。然も、我々の軍動は現在著しい後退を示してゐる。文化団体間に動揺を惹起した治安維持法案は遂に成文化せられずに終ったが、ユムプに於ける危機は依然として存在してゐる。如何にして現状を打開するかは、当面の我々の急務でなければならぬ。其の為に先づ我々は第二回拡中協以後一ケ年の斗争の跡を見よう。

コップ第二回拡中協のために高められた全同盟員の関心に、更に拍車をかけその中心的課題たる経営農村への進出、即ち音楽サークルを開研してプロレタリア的活動メンバーを引上げ、大衆の中にプロレタリア音楽の影響を確保する事及び創造的面に於ける政治的課題への従属の任務をよりよく果すためにユンプ中最強力なる東京支部の総会が九月に持たれる事となり準備活動が進められ、八・一を前に機関誌「プロレタリア音楽」第二号が出され続いて歌曲集「前哨の歌」第五号が計画された。機関誌は創作方法の問題、芸術アヂプロ隊等について敏活に問題をとり上げ第一号に勝る進展を示した。創造的活動としては八月築地小劇場に催された反戦文化闘争週間の芸術オリムピアードへの積極的参加が強調され「失業者の歌(アイスラー曲)」が歌はれ、ハーモニカ班が出演した。又少年劇団の公演には同盟員の自発的協力参加がなされた。然しこの期間に於てはユンプ内に合唱、ハーモニカ等々の班は確立されてゐず従って創造的活動は単に個人的に行はれ、当然充分な成果を挙げたとは云ひ得なかった。之等の活動の不充分さを全体的に指摘し、具体的な方策樹立のために、ユンプ東京支部総会が持たれた。

総会は、総会のための報告書の客観的情勢に対する把握の不充分さ、サークル活動沈滞の原因を移動隊の不活発さに求める事の誤謬、〇〇(二文字不明)活動の自己批判の不充分さ、等の欽陥を指摘しサークル沈滞の原因を配属オルグの客観的情勢の把握の不充分さから来るもとなし、創造活動の立おくれの克服のために全同盟員特に創作班員の経営内活動への積極的参加を強調し、友誼団体との共同斗争、同伴者的音楽家の我々の側への獲得と、過去に於ける失敗の批判(指導部の弱さ、彼らに任厶を与へなかった事等)を決議した。そして同時に同盟内の整備が行はれ、現在持たれてゐない、しかも音楽活動には不可缺のものたるべき、合唱、オーケストラー再建が提議され、直ちに実践に移された。そして間断なき敵の暴圧を蹴って、総会の成果を更に全国的に発展させるために、十一月ユムプ第三回全国大会の目標が樹てられ、その直前、東京支部は音楽会を行ひ、その盛り上りを大会へ発展させ、これを契機として沈滞してゐるサークル活動を盛り返さうとする計画がなされた。これにつれて創造的活動も活気を呈し、「赤旗の歌」(合唱甲編曲)、「青年の歌」(絃楽二重奏曲)、「インターナショナル」(管絃楽甲編曲)、ーが作られ、九月青年デーのカンパに広ずべく歌曲集が計画されたが、財政難から一ヶ月おくれて十月、「前哨の歌」第五号として出された。レコード吹込も九月下旬行はれ、「赤旗」及び「勝利」(十月への途ーソヴェート歌曲)が吹込まれ、機関誌第二号及び新聞型中央機関紙の「ユンプ」も原稿が全部集り、唯出版費不足のため発行がおくれてゐる状態であった。新同盟はこの間数人獲得された。然し乍らサークル活動は依然として発展せず、地方支部支準は次第に無活動状態になりつつあった。これは敵の弾圧強化もあるが、中央部の指導の弱まりが当然その原因として挙げられねばならぬ。
かくしてユンプが新たなる決意をもって全国大会を争ひ取らんとしてゐる時、指導的一同志の手になる「当面せる主要な問題についての覚書」東京支部に提出された。


「覚書」はユンプの全活動の軸ともなるべき根本命題たるコップによって與へられた諸方針及びその具体的成果に対して批判を加へたものであってユンプ内に大きな波紋を與へた。「覚書」は同盟の活動は情勢の成熟から著しく立遅れてゐる事実及び現在迄の成果の挙らざる事についての自己批判を要求し、コップによって示された「党の観点」といふ事は党と党外組織の混同であるとし、その指導方法の変へられねばならぬ事を説き、サークル活動は東京労働組合の任むに属するものであり、音楽運動に之を方針として掲げる事は虻蜂取らずの結果を招くとし、同じ見地から同盟の機関構成を批判し、結論として、
Ⅰ.補助組織に対する従来の任ムを方針として負はせる事を止メル事。
Ⅱ.階級的課題の従属のために同盟員を叱咤せず、新テーゼの示す説得の方法によってのみ行ふ事。
Ⅲ.基本的斗争への日常的参加もⅡと同じ手段をもってする事。
Ⅵ.ユムプ指導部は指導能力ある、音楽家評論家によつて最も民主的に選出さるべき事。
等が述べられたものであった(詳細はユムプニュースを参照せよ)この覚書に対しては直に反対意見が起り、対論は約三ヶ月に亙って行はれた。然し乍ら「覚書」は、組織方針の誤りが今日の不振を来たしたといふ点のみ強調され、そこから問題を出発させてゐて、我々が音楽的にいかに方針を生かしたか、換言すれば音楽の面に於ける自己批判と問題のとり上げがなされてゐず、従って当時技術的な面の再建(オーケストラ、コーラス)等に全力を集中してゐた東京支部のメンバー(併も殆ど新同盟員)には突如として出されたこの「覚書」は誤謬の点のみ取り上げられ覚書の提出をモメントとして、当時すでに内在してゐた音楽運動の危機を充分に認識する事が出来なかった。又当時の情勢に於ては、同盟員はかゝる技術的面の再建は可能であると信じて居り、又その限りでは他同盟も同様の道を進んでゐた。故に当時の支部同盟員は挙って覚書をコップの方針の歪曲であり日和見主ギなりとして反対し、後述する方針の音楽の面に於けるジュン化の為に戦ったのであった。その上、覚書に賛意を表した同志達が覚書提出と同時に自己の部署を事実上放棄したことは、ますゝ覚書を現在の不振の胚種たるべき危機の認識のモメントとして理解する事を妨げた。討論進行中、新築地劇団との共同公演が江東地区に於テ計画的され、十分に練習もなされ公演準備活動も着々進められたが、間際になって署から中止を命ぜられた。暮に於ては同盟員ノ個人的なイニシャーチブによって、忘年会等に出演したが、単に出たといふに過ない程度の成果しか収めえなかった。オーケストラ班は其後再建運動はかなり進捗したが、ユムプ独自のオーケストラとも、同伴者的オーケストラともつかない中途半端な形態の練習を続けてゐて、又その正しい決定を同盟指導部の与へなかった事と、オーケストラ内のユムプ員のフラク的活動の不充分さによって、再びメンバーの減少を来した。一方レコード吹込は、宣伝に敵階級の圧迫に対する技術的巧さを欠いた為と出版部責任者のルーズさのタメ、プレス差止めを喰った。要するに総会のあと一九三四年初頭は討論にのみ拘泥して、実際的活動の渉らぬまゝにすぎた。この間、前記の事情による指導能力の弱まり(指導部の有力メンバーが約半分任厶を放棄した事等)が、ユムプ活動を如何に妨げたかは全く総大なるものがあった。


一九三四年一月持たれた拡大中央委員会は、討論発生以後の問題の発展に対し、締めくくり的に結論を与へた。まづ覚書の、音楽運動に於ける自己批判のモメントとして提出された意義及ユムプ内の政治主ギ的偏向の指摘の正い事。而しそれにも拘らず音楽といふ芸術ジャンルの特殊性が全く生かされてゐず、従って右に対する右式(この部分判読困難)の態度をもって扱はれてゐる事が批判され、(一)政治的課題の従属を従来の如く狭く解釈せず、ユムプの音楽活動を貫いてその適応努力すること、(二)サークルを単に統一戦線組織とのみ理解せず、ユムプの音楽的影響を確保し、大衆の音楽的水準を高めるタメのものとして組織活動がなさればならぬ。(三)コップの諸方針を機械的に鵜呑みにせず、音楽の面への醇化浸透を計る事等の決ギがなされ機関及メンバーの改選が行れた。そして、地方支部が全部潰滅の状態にあり、本部の必要を認メないとの理由から、本部と東京支部を合同して単一指導機関を形成した。


ではかゝる新しい具体的方針は如何に実践されたか?我々はこゝに、現在のユムプの状態をありのまゝに述べる事がその最も明瞭なる答へであらうと考へる。
(一)創作的活動
本年一月以后、一の創作も、一の演奏もない。オーケストラは其後再び活動が盛返されてはゐるが、ユムプ独自のオーケストラは未だ持たれてゐない。
(二)組織活動
サークルの手掛(この部分判読困難)が折々得られ、その都度同盟員は派遣されてゐるが、現在の所、とに角サークルと名のつくものは三つ丈である。それもサークルとしての自主的機能は殆ど果されてゐない。
(三)出版活動
9月以降皆無である。ニュースが唯一度出されてゐる。
(四)同盟員の状態
現在同盟員総数は四十二名、其内何らかの形でユムプの活動に参加しているものは、僅ゝ十名にすぎない。ユムプでは打ち続く暴圧に六名の中心的メンバーを抜かれ、又情勢の困難化と共に同盟から姿を消すものも出来てゐる。
(五)地方支部支準
現在は全部ない
(六)財政状態
コップ費は〇(一字不明)殆ど滞納され、同盟費納入は新メンバーによっては比較的よく果れてはゐるが、前記の僅ゝ十名がこれに応ずるにすぎない。

ユムプの不振が現在如何なる状態であるかは、以上に上げられた事実によって明瞭であらう。ユムプ中央委員会は更生の意気をもって新決定の実践に移った筈であった。にも拘らずかゝる不振を招いた原因は何であるか?指導能力の弱りといふ事が考へられる。我々の指導はその成果からみて確に完全に正しい指導であったとは云ひえない。しかし乍ら現在我々は、自己批判の結果指導部の改選等の手段をもって運動を正しい方向へ立直りうる見透しは全然もちえない。従って又、分散せる同盟員を急速に活動に導入れる見透しも無論ない。又我々はユムプに課された課題を遂行すべき場面も、能力も今はもってゐない。
勿論、現在活動しつゝある同志たちは若く溌溂さに充ちてゐる。階級的熱意をもって、我々の陣営に参加してゐる。しかし我々が現状のまゝにして進むなら、必ずその人も我々から離れるであらう。かくて我々は現在全く第一歩より踏出す事の必要を痛感してゐる。その為には我々は過去の音楽運動の批判のみならず、音楽運動自体の今日及す役割大衆の影響及欲求(これは明にナルプやプロットと異ってゐる。)等の基本的問題の討論がなされねばならぬ。最近に於て「社会主義リアリズム」の問題を契機として音楽に於けるリアリズムの問題がとりあげられつつあるのは喜ぶべき傾向である。
最後に、ユムプの再組織提案について、未だ最後的決定をみるに至らないが、再組織提案は主として治維法に対する戦術としてのみ提起されてゐるが、現在の文化運動の内部に存する広義の打開策としても再組織の問題がとり上げられねばならぬ事 戦術としての意味で呈起される限り、又我々の行詰りが日和見主義等の克服等の問題の更に深処に存する基本的問題の解決をみざる限り、我々の行き詰りは打開されえない事等の意見が出てゐる事を附加する。

以上。

《解説》

プロレタリア音楽同盟の資料は、1965年にプロレタリア文化運動資料刊行会から復刻されています。その中で最も時代が新しいものは、『日本プロレタリア音楽同盟ニュースNO.8』(これが五(三)のニュースか)などの、1933年9月の日付のものです。その後、プロレタリア音楽同盟が解散に至るまでどのような道を辿ったのかはよく分からず、『プロレタリア文化』や『コップ』で少し窺えるくらいです。

『司法研究 報告書 第二十八輯 九 プロレタリア文化運動に就いての研究』(1940年3月 司法省調査部)には、プロレタリア音楽同盟は「昭和八年末に於ては殆んど消滅に近い状況に陥った」とあり、同盟の最末期の1934年に書かれたこの『報告書(草案)』は、1933年9月以降の空白の期間を埋める、プロレタリア文化運動の研究においても貴重な資料です。中でも重要な部分は赤字で表示しました。

まず、「コップ第三回拡大中央協議会」について。『プロレタリア文化』3-9(1933年12月号)によると、「第三回拡中協は十二月中に開催する予定であったが準備活動の点に不充分を認めたので一月に延期することにした」とあります。また、『司法研究 報告書 第二十八輯 九 プロレタリア文化運動に就いての研究』では「予定の十二月末に開催されなかったのみならず、延期に延期を重ねた末、遂に実現に至らなかった」と書かれてあります。この『報告書(草案)』は1934年に書かれているので、1933年12月の為にではなく、延期後の協議会に向けて用意されたものでしょう。

文中に「第二回拡中協以後の一年間の状態は如何なるものであったか」、「我々は第二回拡中協以後一ケ年の斗争の跡を見よう」とあります。コップ第二回拡大中央協議会は、1933年6月18日に開催されています。これ以後の1年間のプロレタリア音楽同盟について書かれた報告書ということですが、プロレタリア作家同盟が1934年2月22日に、プロレタリア美術家同盟が3月28日に解体し、コップ(プロレタリア文化連盟)自体も1934年4月12日(?)に解散しています。従ってこの報告書は、第二回拡大中央協議会から1年経った1934年6月に書かれたとは考えにくいです。また、文中で「十一月ユムプ第三回全国大会」を「争ひ取らんとしてゐる時、指導的一同志の手になる「当面せる主要な問題についての覚書」」が「東京支部に提出され」、「直に反対意見が起り、対論は約三ヶ月に亙って行はれた」とあります。これらを総合すると、この文書は1934年2月頃までには書かれたのではと推測します。

文章を読むと、同盟内で意見の相違があり、大きく揉めていたことが分かります。同盟書記だった河野さくらは『現代日本の作曲家シリーズ・別冊① PMの思い出 日本プロレタリア音楽(家)同盟 1930〜1934』(1993年 音楽の世界社発行)の最後にこう書いています。
この秋から翌年のコップ解散の日までのPMの記録、最後の章は誰かがいつか書くこともあろう。それは私に資格がないからである。最後のページになって、私たち、つまり音楽家でない同盟員は除籍されたのである。それが弱い部分に加えられた敵の破壊工作であったか、あるいはPM創立の当初から潜在していた音楽家と非音楽家との組織上の解決されなかった問題の一つの解決であったのか、それをせんさくする必要があるかどうか私は知らない。
音楽同盟に限らず、当時の左翼陣営の資料を読むと、本来は国に向けるべき闘いを、仲間内に向けていたことがよく分かります。
なお、河野さくらの言う「最後の章」は誰も書くことはありませんでした。その点でも、この『報告書(草案)』が重要だと分かります。

音楽同盟のレコードについては、3枚が吹き込まれて発売され、第4号については、計画のみに終わったと考えられてきました。1933年9月11日の『日本プロレタリア音楽同盟ニュースNo.8』では「レコード第四号吹込が計画されてゐる」とあり、このニュース以後の同盟の資料は発見されていなかったためです。この『報告書(草案)』によって、第4号が9月下旬に実際に吹き込まれ、その曲目が、「赤旗」と「勝利」(十月への途ーソヴェート歌曲)ということが確認されました。また、それがプレス差し止めになり、発売には至らなかったことも分かりました。

歌集『前哨の歌』も4冊の発行のみと考えられていましたが、第5号が1933年10月に発売されていたことも、これによって新たに確認されました。

他にも新発見の事項があるかも知れませんが、私の研究不足のために、全ての調査は終わっていません。

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